大畑大介 これまでのあゆみ
元ラグビー日本代表 大畑大介
ここでは大畑大介商店を始めるに至るまでの大畑大介のこれまでのあゆみを簡単にご紹介します。
幼少期
1975年11月11日大阪府に生まれました。
泣き虫で、人気者になりたいけど自分から友達の話の中には入れない性格。でも運動神経は抜群だったそう。
実家はパン屋さんを営んでいました。
卵を片手で割ったり、お好み焼きやホットケーキをひっくり返すのが上手だったりするのは、
幼少期からお店のお手伝いをしていたからだとか。
お手伝いの際は、“どれだけ効率良く早く終わらせて遊びに行けるか”をモットーにしていて、
その考え方が、後々のラグビー生活においてもかなり影響を与えたと言っています。
ラグビーとの出会い
父親がラグビーをしていたので、物心ついた頃から身近にラグビーがありました。
本格的に始めたのは小学校3年生からで、理由は、当時の男の子が始めるスポーツの定番であり、みんながやっていた野球をやりたくなかったから!
誰もやっていないラグビーで一番になって、みんなから注目を集めてやろう!と考えたからなんですって。
その思惑通りかはさておき、ラグビー教室に通い始めた初日に、短距離走練習で誰よりも速く走って、注目の的に。
その瞬間にラグビーが自分の居場所だと感じたそうです。
挫折
とにかく足が速くてトライを量産していた大畑少年ですが、小学校高学年から中学生にかけて大きな挫折を味わいます。
足首や膝が次々と痛くなるいわゆる成長痛というやつで、ライバルたちに追いつき追い越されていってしまいました。
しかし、このままではダメだと一念発起します。
初心を思い返し、自分の居場所と感じたラグビーを頑張ってみようと、言い訳ばかりしている自分を叱咤激励します。
高校進学にあたって、どこからも推薦がかからない無名選手だったことを逆手にとり、ラグビーで自分が一番成長できる高校に行こうと自ら考え行動しました。
チームスポーツであるラグビーは自分だけ成長しても、あるいはチームだけが強くなっても意味がない。自分とチームの両方が同時に強くなって、かつ成長したことが実感できる学校に行きたいと考えた大畑少年は、当時まだ全国大会出場経験のなかった東海大仰星高校に進学を決意します。
高校時代
入部当時は最弱の選手でした。だって自分のような無名の新入部員はいなかったのですから。
それでも高校卒業までの目標を『全国制覇』と『高校日本代表』に定めます。
最弱の選手ですから、誰が見ても夢物語の目標で、周りからは絶対できるわけないと、白い目で見られました。
もちろんすぐに達成できるとは思っていませんでしたから、この目標に近づくための小さな目標を立て、それを一つずつクリアしていったそうです。
小さな積み重ねが実り、高校2年でレギュラーに大抜擢。初の全国大会出場も経験します。
その後『全国制覇』は成し遂げれませんでしたが、3年生で『高校日本代表』には選出され、目標の一つを達成することはできたんです。
大学時代
大学進学に当たっては、たくさんの推薦がありました。一番練習量が多いと言われていたチームである京都産業大学に進学を決めたのは、父の教え『しんどい道を進むことで大きなものが得られる』という言葉があったから。
その言葉通り、良い先輩に巡り合い大学3年時に、同期の中で誰よりも早く日本代表に選出。
大学チームのキャプテンを務めた4年時は当時の最高成績である全国ベスト4に。
神戸製鋼に入社
大学卒業後の進路についても、すでに日本代表として華々しく活躍していたこともあり、数々のチームからオファーがありました。
神戸製鋼を選んだ理由は、当時監督だった平尾誠二さんの誘い文句。
『レギュラーの椅子は自分の力で取ってくれ』
他のチームは『レギュラーを約束するからぜひうちのチームに来てほしい』というオファーの仕方でした。
いくら代表で活躍しているからと言ってレギューラーの椅子を空けて待っていることはしない。
まさにしんどい道を選んでいますね。
オーストラリア・フランスでもプレー
当時は珍しかった海外にも挑戦します。
体も大きくなくアジア人で、言葉が堪能だったわけでもありません。
チームに認めてもらうためには、ボールを持っていない時に、いかにチームのために動けるかが大事だと学びます。
ボールを持っている時に仕事をするのは当たり前。そうじゃない時に体を張ったプレーができるか、スペースを上手く使えてるか、など地道なプレーで徐々にチームの信頼を得ていきました。
代表の海外遠征の際に、外国のお米が苦手だった大畑が主食にしたのが大好物のじゃがいも。
プロアスリートにとって、食はパフォーマンスと直結する大事な要素。
どこの国でもあるじゃがいものおかげで海外生活を乗り切ったとも言えるそうです。
怪我との戦い
数々の怪我に悩まされた現役時代ですが、怪我をしても回復していくことをポジティプに捉え、プラス思考で乗り越えてきました。
しかし、自身3度目の出場がかかったワールドカップの半年前にアキレス腱断裂。
スポーツ紙にも大きく『大畑ワールドカップ絶望』の文字。けれども、主治医の半年あれば戻れる、の言葉に本人は至ってポジティブに良いネタができたと思っていたそう。もちろんリハビリは壮絶そのものだったと思います。
しっかりワールドカップに照準を合わせ、代表復帰した大畑。
悲劇はワールドカップ2週間前の調整ゲーム。反対の足のアキレス腱を断裂。
ラグビー人生の集大成と思っていた3度目のワールドカップ出場は幻となりました。この時ばかりは先が真っ暗で何も見えなくなったそう。
それでも時間はかかりましたが、たくさんの人に支えられ、グラウンド復帰を果たします。
その時に迎え入れてくれた仲間やファンの歓声は格別だったとか。
2011年の現役引退まで走り続けました。
世界記録、ラグビー殿堂
ところで大畑はギネス世界記録を保持しているんです。
代表試合トライ数69トライ
引退して10年近く経ちますが、この記録は2021年4月現在も破られていません。
今よりも代表試合が少なかった時代、そしてキャップ数(代表試合出場回数)は58なので、
これだけのトライの数は本当にすごいことだと思います。
本人に言わせれば、(きっとラグビーをしている人みんながいう言葉かもしれませんが)
自分一人の力ではなく、仲間が繋いでくれたボールで、仲間と一緒に取ったトライだ、と。
そしてその功績もあり、また初のアジア開催でもあったラグビーワールドカップ2019を見据えて、
2016年には日本人2人目のラグビー殿堂に選出されました。
世界では131人目ということで、キャップの裏側に、殿堂番号131の刺繍があります。
現在の挑戦
アンバサダーを務めた、ラグビーワールドカップ2019が大盛況に終え、
さあオリンピック!(7人制ラグビーがオリンピック種目です)となった時にコロナがやってきました。
大畑自身現状を模索し、スポーツという切り口だけではない自分を表現したいという思いもあったと思います。
3年間リポーターを務めた毎日放送『産直ダイスケ』という番組を通じて全国各地の生産者の皆さんと交流して参りました。
現地で食べるとれたての野菜・果物・魚はこんなに美味しいんだと実感。同じものを店舗で買って食べたら、あれ?と思うこともしばしば。鮮度って本当に大切なんですね。
冗談で日頃から『大畑マルシェ開きたいわ〜』と口にしていた大畑。コロナ禍で出荷先が減り困っているというお話を、じゃがいも農家さんから聞いたのがきっかけでした。
まだまだ始まったばかりですが、全国のこだわりの美味しいものをお届けできるように、大畑自身が産地に足を運んでおります。
温かく応援いただけると幸いです。
この記事を書いた人
大阪府出身。10代〜20代半ばまで某劇団員として舞台で活躍。
アスリートのセカンドキャリアや、ラグビーW杯2019、東京五輪・パラリンピック2020に仕事で携わることに興味を持ち現在の職に就く。
MBS『産直ダイスケ』のロケへ、大畑大介マネージャーとして3年間同行してきた経緯から、大畑大介商店担当となり、現場取材・取材記事作成・商品撮影・サイト運営・SNS運用等、奔走中。
【産地直送】生産者と食卓を共に笑顔に|大畑大介商店
元ラグビー日本代表の大畑大介が、コロナ禍により困っている生産者の方の力になりたいと立ち上げた、“全国各地の生産者の方”と“皆様の食卓”を繋ぐサイトです。大畑大介が自信を持っておすすめする産地直送の美味しい食材(新鮮な野菜・魚介類・果物・お米等)をお取り寄せいただけます。 また出品いただく生産者の方も随時募集中です!
屋号 | 株式会社ディンゴ |
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住所 |
〒530-0041 大阪市北区天神橋1-17-2 辻ビル202 |
営業時間 | 10:00~17:00 |
定休日 | 土日祝 |
代表者名 | 辻井 伸久(ツジイ ノブヒサ) |
rugby@ohatadaisukeshouten.com |